絵のしごと
紙に絵を刷り始める時は「紙と対決」という気持ちである。
精魂込めてつくった紙が使われていくとき。
しかし、もう紙をつくるという、うんちくが少しもうかがえない程に絵として成り立つ作品がつくれたらよいと思う。
紙をつくったり刷ったりしながら、絵のこと、紙そのもののこと、作品として、紙が絵とうまい具合に絡んでいってほしいことなど、あれこれ考えつつ、時間をかけてやり取りしてゆく事を楽しんでいる。
手漉き和紙のこと
素材であるにもかかわらず、不思議に完成度の高さと美しさをもつ和紙に魅せられて、紙を漉き、版を重ねて作品にしていくという制作を続けている。
初期につくった紙と、今つくる和紙に変化はあるが、あれこれ試したり刷ったりしつつ20年も過ぎてしまった。
リトグラフの制作に取り掛かる時は、和紙そのものは単に作品の支持体でしかなく、自分が漉いた紙だという事に特別な感情は無いと言えるが、自分にとって和紙の魅力は、材料の質としてのものと、つくる工程の中にもある。木の皮でしかない原料を紙へとつくり変えていく行為は単純に嬉しい。変化の姿を体感できる。
漉くまでに、まず楮や三椏など、木の皮をアルカリで煮る(原料栽培、刈り取り、蒸して皮をはぐなどの作業もあるが)ふっくらと煮て、水にさらしながら細かな表皮のカスやゴミをしつこく取り除く。
水中でキラキラ光る原料から紙になりそうな表情が見える。
きれいにした原料は絞った後で叩く。機材が無くても木槌でひたすら。
時間はとてもかかるが、叩くほどに繊維の毛足が広がって行くと、もういかにも紙になりそうに見える。
叩き終えたら漉舟の中で水にとかす。繊維一本一本が水に広がるまで混ぜて「ねり」と 呼ばれる植物の根などからとる「粘り気」を足してよく混ぜると、ねりのせいでトロンとした水中に繊維が浮遊した状態になり、いよいよ漉く。
簾と桁を使い原料を縦横に揺すりながら繊維をからめ簾の上に沈着させていく。何度か汲み足してゆすりながら、絡ませて強度をつくり厚さも作ってゆく。
漉き上げた紙は一日分、漉き重ねて翌日じっくり絞り、紙床(紙の塊)から一枚ずつ剥がしては、板にハケで張り付け、天日で干す 。
たったこれだけのシンプルな作業で、原料がこんなにも姿をかえるのが、面白い。
十分な時間、漉き場と、良い道具、良い原料、良い水や日差しと技術は必要であるが…。
自分が、ただ必要に思う材料としての紙をつくる事は、作品をつくるのとは別のスタンスであるが、工程そのものがしっくり身に馴染んでしまったと言おうか。贅沢な事ではある。
つくり始めた頃は欲しい和紙が高価すぎて、思うように使えないからつくってしまえ、という事だったが、思う紙をつくる道のりは高価な和紙をはるかに越えてしまった。
贅沢な手間と時間を実感しつつ、自由に使う事は出来ている気はする。
長い工程を経て作られる繊維の層のような和紙だが、リトグラフの場合、木版画のように絵具や膠を繊維の奥に定着させる質のものではないので、少し残念な気はする。
リトグラフの油性インクに向くような繊維の短い、三椏や雁皮をブレンドするが、プレスを重ねるたびに、和紙に含まれる空気が潰されてきて表面の表情はインクの層に被われて、マットになっていく。やわらかさ、しなやかさが、圧縮されていくうちに、和紙の表情や素材感は、作品に変わってゆく事になる。